障害者と障害者でない人の境界線を考える
わたしの職場には片目が全く見えない人がいます。
片目だけでの生活で不便なことは、遠近感がつかみにくいので、思った場所に手を伸ばしてもずれることがあったり、
片目だけの視野になってしまうので、目を動かしたり、顔を振ってカバーしないといけないことです。
もう片方の視力、視野は正常なので、車の運転はできます。
でも、両目のときと感覚が変わったので、以前より運転しなくなったと言っていました。
コンタクトレンズを入れるのも時間がかかってしまうそうです。
現在、視覚障害の認定は良いほうの目が基準になっているので、その人は視覚障害の認定は受けられません。
日常生活で不便な点はいろいろありますが、文字の読み書きや安全の確保には問題ないでしょう。
仕事にも特に影響はありません。
その人は診察室で先生の隣に座って、電子カルテの入力をしています。
パソコンの画面は平面ですからね。
眼科ですから、視覚障害の認定を受けられるレベルの患者さんもたくさんいます。
でも、ほとんどの人が申請もしていないようです。
・回復の可能性を期待している
・先生から認定が受けられる説明は受けても、積極的に申請を推奨はしていない
・障害者になりたくない
・メリットが分からない
などなど。
障害者手帳を取得していない、ということは障害者と社会で呼ばれることはありません。
わたし自身は25才で障害者手帳(精神)を取得し、2級→1級→2級と変化しながら15年がたった。
メリットはそれなりにある。
生活のしづらさや家族に身の回りのお世話をしてもらっていることも変わりなく続いている。
軽くなったという実感はない。
ちょうど更新の時期になった。
精神の障害者手帳は2年ごとに更新の手続きをしなければ、障害者ではなくなる。
手続きはおっくうだが、一応持っていた方がいい。
父は身体障害者手帳を持っている。
大腿骨を骨折したときに人工関節にしたからだ。
その後も変わらずに仕事を続けた。
歩きづらくはなったが、数年前に仕事は引退し、今日も元気にウォーキングへ行った。
JRなど交通機関の割引もあるし、結構出かけるのが好きだ。
家事は母にまかせきりだが、別に障害のせいではない。元々やっていないだけだ。
介護は必要ない。
家の風呂や階段に手すりをつけるとき、介護認定で要支援になった。
だだ、それはバリアフリー工事の補助金を受けるためだけにしたこと。
再度の認定は依頼していない。
今のところは必要ない。
糖尿病やら難病は抱えているが、わたしよりずっと活発で元気な生活をしている。
詳しくは聞いていないが、診断されているから処方されているのだろう。
根拠もなく診断はしないだろうが、疑問である。
高校生までは一緒に暮らし、数年前からも一緒に住んでいるのだが、
子どもの頃からそれらしい一面を感じたことはない。
もちろん、学年は違うから学校での様子がどうだったとか、職場の様子まで知ることはできない。
専門学校を卒業した頃、不景気で契約社員や派遣社員だった時もあるが、現在は会社員をしている。
もし、障害者手帳の申請をしたらどうなるんだろうか。
申請するかしないかは個人の自由だし、手帳の存在も知っているし、わたしが考えてあげることじゃないか。
はぁ、生きていくって大変だなぁ。
障害者ってそんなもんだ。
せめて楽しいこと、面白いと思えることがあるといいのに。