心の回復にフットサル 新聞インタビュー記事を読んで 4 充実した日だった理由が分かった
前回のインタビュー記事の続きです。
(一部省略しています)
イ:
処方箋はありますか。
岡:
わたしも治療のゴールを就労に置いていたときがありました。
すると、患者さんは仕事で全力疾走していてバタッっと倒れるんです。
そこで、好きなことや楽しみを聞き、それに取り組むよう促しました。
その人が楽しいと思える文化的活動、つまり『遊び』です。
遊ぶことを目的にして、仕事はそのための手段にしてよと。
遊ぶ時間があって、仲間との交流もあると、結果的に長く続きます。
イ:
でも、遊んでばかりではその人のためにならないのでは。
岡:
成長の過程では特に、好きなことをやる自分の時間と場を持ったほうがいいと思います。
少年時代に遊ぶことを知らないと、社会に出てから自分や他者が遊ぶことに前向きになれません。
それなのに、今は子どもも、学業での結果だけを求められ、遊ぶ機会が奪われてはいないでしょうか。
遊びをもっと大切にしようと言いたいですね。
イ:
少子高齢化が進む日本では、生産性を上げることが求められていますが。
岡:
逆説的かもしれませんが、生産性を上げるために遊ぶんです。
体を動かしたり、楽しく活動したりすることが脳を活性化すると、研究で分かってきました。
遊ぶ場や、仲間の存在は心の病を予防します。
短期間で生産性向上を求める社会は、逆に生産性を下げるのではないでしょうか。
仕事を頑張れば豊かになると言われた社会から、仕事だけではない、『遊び』を大切にする成熟した社会を目指すべきだと思います。
以上で記事は終わりです。
わたし、子どものころ、あんまり遊ばなかったな。
どちらかと言えば、学校の勉強が得意で、遊ぶことは苦手。
それは、今でも変わってないかも。
遊ぶって何をしたらいいのって。
唯一、楽しかったのは動物たちの世話。
小学生のときは学校で飼っている動物たちの飼育委員。
中学生のときは犬を飼い始め、熱心に世話をした。
高校生のときは愛犬と旅行へ行った。当時は珍しかった。
お利口さんで、おとなしい、自慢の愛犬。
うつ病になって、休職したとき、両親が気分転換に愛犬と旅行へ連れて行ってくれた。
でも、仕事をしていないのに遊ぶなんて、心の底からは楽しめなかった気がする。
わたし、楽しんじゃっていいのかなって。
転院して、入院して、その先生が楽しいと思えることはいっぱいしていいと教えてくれた。
入院中なのに、面会の時に親に犬を連れてきてもらって、お散歩したり、ドッグカフェに行ってもいい、と。
退院して、また何度か旅行に行った。
楽しかった。
一緒にたくさん歩いて、走って、ボールを投げたら持ってきて。
楽しそうなわたしと愛犬を見て、声をかけてくれる人がたくさんいた。
仕事はしていなかったけれど、ひとりじゃなかった。
まだまた苦しい日、つらい日もあったけれど、幸せだった。
本当に愛犬と暮らす生活が幸せ絶頂だったとき、愛犬が亡くなった。
楽しいと思えることなんて、何もなくなったけど、楽しかった記憶は消えない。
思い出せば今でも悲しいけれど、前に進む力をくれたのは、たくさんの楽しかった記憶だと思う。
でも、あんなに働くことに憧れていたのに、実際に始めてみるとつらいことが多い。
どんなに頑張っても。
不器用で要領も悪くて、覚えが悪くて、よく間違える。
頑張っている人間とさえ思われない。
きちんとやれないヤツは遊んではいけないとずっと思ってきた。
休みの日に遊んでいいのはきちんと仕事している人に許されていると。
まぁ、休みの日に動ける状態でもなかったんだけど。
ごく、最近、休みの日に寝っぱなしというわけではなくなった。
休みの日に犬の散歩以外に全く外に出ないのは、不健康ではないかと、ふと思った。
出られるのなら出てみよう。
そう思って行ったのがボランティアとペット博。
どちらも動物のためになること、愛犬のためになること。
子どものころと同じ、犬が好きだから、動物が好きだから、それに関わっていられることが楽しくて、充実した日に感じられたのだと思う。
外に出て、仕事とは関係のない人と、好きな話題で会話する。
働いていない、家事をしていない、育児をしていない、介護をしていない、何にもしていない人を世間は非難する。
病気や障害で働けなくても、世間は精神障害以外だったら「がんばっている」と評価する。
でもさ、精神障害のある人だってがんばってるよね。
理解できない人たちの声に振り回される必要はない。
さぁ、楽しもうよ。